2012年3月 2日 (金)

父のスケッチ 1923年。

Rimg34075 父が15歳にならんとする大正12年 http://www001.upp.so-net.ne.jp/fukushi/year/1923.html。川端画学校で厳しいデッサン訓練を受けながらも、時代の流れなのか、神田・文房堂に寄って画材を買ったりしているうちに他所の画学生と交流し始め、新しい芸術の潮流に耳を傾けては今の神保町あたりの画廊を見て回っていた頃のスケッチです。しっかりしたデッサンというよりも肩の力を抜いた軽ろみの趣きに大正モダンの気配があります。この年7月、文房堂のギャラリーで開催された村山友義のマヴォと称される新芸術運動に首を突っ込むなど、関東大震災直前のおおらかで愉快な時代だったようで、父の当時の回想録にも、その頃の画学生の様子が鮮明に記録されています。

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2012年3月 1日 (木)

父の構図解析 ジャコメティー。

Rimg34063 ますます深みにはまる父の絵画彫刻の構図解析の中でも、このジャコメティー http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0500.html の彫刻に関わる一ページはもう何のことやら・・・。

右に書かれた一文などは無意味の意味でも探ろうとしていたのか、あるいは芸術それも絵画の立ち位置でも模索していたのか、不可解千万であります。絵筆をとることもほとんどなくなり、日々が出版編纂と祖父の記念館設立準備に追われていた1960年代の記録です。

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2012年2月25日 (土)

田園風景 父のスケッチ 1922年。

1 父が数多く遺した川端画学校時代のスケッチ・デッサンのなかで、個人的に好きな一枚としてはこれを挙げます。先輩等にデッサン手法を叩き上げられた影響もなく、かといって稚拙なものでもなく・・・、大正後期の長閑な東京の何処かの景観です。何しろ、画かれたインデックスが何もなく、生前、父からもこのスケッチのことなど聞かされてもなかったので、ひたすら観ては推測と想像だけでこの風景の余韻を愉しむしかありません。

小さなお家のイエローオーカーが効いていますね。時季はあくまでも直感ですが、夏らしい気配なのですが・・・。

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2012年2月24日 (金)

父のスケッチ 1922年。

Rimg34085 父が14歳の頃、川端画学校に通いながら、バッグにでも容れていたたであろう小さなスケッチブックには4B位の濃い鉛筆デッサンが画かれていますが、手近なモノを画いたのはこの一枚だけです。油絵具チューブの素材感はなかなかリアリティがあって、光のハイライトが鈍く光り、薄いアルミニューム素材の質感をシンプルな筆勢で一発勝負しています。川端画学校の先輩等に厳しく技術指導された痕跡が粗悪な紙に滲み込んでいるかのようで、少年らしさなど全くないアカデミックなスケッチになっています。

1960年代、私がデザインの技術授業で仕込まれたレンダリング手法の原型でもあるがのごとく、対象を象徴化していますし、影の画き方までもが構図として計算されています。

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2012年2月22日 (水)

父の模写と解析。

Rimg34060 1950年代後半からモジリアーニの不思議な人物像が気になりだした父は、スケッチブックに鉛筆とボールペンで模写し、気にかかる箇所を強く画き、自分なりの解析を試みていました。独特な傾げ顔と骨格のねじれが、どうして平面でいとも簡単に表現出来たかということを手を使って答えを求めていたのでしょう。この頃、父の探求していた作家・モジリアーニやジャコメッティの造形と陰影の模写は、執拗なまで続けられるのです。しかし、ある時期が過ぎるとピタリと模写は止まり、一気に手から頭へと思考回路が転換・・・、日々のノートに書き続ける暗号と呪文のような日記に、取って代わられます。

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2012年1月21日 (土)

父のスケッチ・1923年

3 1923年の春、川端画学校の生徒と一緒に出かけたのは、15歳になる父にとって初めての海の世界でした。記録には茨城の海ということしかなく、何処とはいえないものの、穏やかなスケッチです。この時代に既に輸入されていた4Bくらいの濃い鉛筆で画いた線の強弱に遠近感が漂って、長閑な漁港が春の麗を享受しています。和船・民家・波打ち際の表現が柔らかいのに、雲は一転、走り書きです。きっと一生懸命スケッチに熱中し、仲間から「帰りの電車に乗り遅れるぞ・・・」、などと急ぐようにでも言われたのでしょうか・・・。

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2012年1月18日 (水)

1965年。吉祥寺第一踏切

19651965年の吉祥寺第一踏切のようすですが、この状態は自転車通学していた頃の記憶が蘇ります。
とにかく踏切の開く時間まで長く長く待たされたので、少し三鷹寄りにあった、枕木を重ねた進入禁止の塀を乗り越えて、学園に向かったのです。ここも今では高架線となってますが、この踏切に限らず「開かずの踏切の多さ」が一気に高架線化に踏み切った発端であったのでしょう。
当時から有名なハモニカ横丁は高校生ではおいそれと寄れる気配ではありませんから、下校時にはこの踏切を井の頭公園に向かい、左側にあった甘味屋の「たかはし」で同級生と落ち合っては、青春の閑談を堪能していました。その向かいにあった「古川スポーツ」はアイビールックの総本山「春木屋」同様、吉祥寺で最も専門店らしい風格があり、学園出入り業者ということもあって、野球道具や卓球ラケットでは、たいへんお世話になりました。

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2012年1月12日 (木)

父のスケッチ 1923年 茨城旅行

1 父が15歳のとき、川端画学校の仲間金原五郎らと茨城の筑波山麓に写生旅行に出かけたときのスケッチが数枚遺されていました。出かけたのが早春という記録しかなく場所も定かではありませんが、川端の先輩になる安孫子真人氏の家に泊めてもらうことになったことが父の川端時代の回想録から分かりました。

鉛筆で画かれたスケッチには早春の長閑な気配が伝わってきます。木々の画き方に乱雑さが見られるのも、先輩らにああだこうだと言われながら書き直しさせられた形跡があるからでしょうか。

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2012年1月11日 (水)

父の研究 モジりアーニ

Rimg34059 モジリアーニにどっぷり漬かっていた1960年代前半の父のスケッチブックは模写の連続であり、中にはこのような構図の解析と謎解き解説がセットになっているものも数枚あります。編纂の仕事や記念館設立の総合プロデューサーなど、画業はすっかり片隅に追いやられてしまたものの、絵筆は持たずともこのような芸術・思想から映画・野球に至るまで興味の幅はとめどもなく、どうにもとまらないのであります。何の目的があってのことか計り知れないのでありますが、元来、観念的な性格がそうさせたのかも知れません。

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2012年1月 9日 (月)

父の人体デッサン 1922~23年頃

Rimg34046 黙っていれば、梅原龍三郎さんのセザンヌもどきなデッサンの風にも見れます。これが父の14~15歳頃のデッサンであるとは・・・、対象にためらいなく堂々と向かい合って画いていて、少年の画風ではありませんね。

川端画学校の先輩である海老原喜之助や指導者の藤島武二などの容赦ない画き直しや厳しくも的確なアドヴァイスの積み重ねでデッサン修業も半端ではなかったようですから、先輩等の技法がのり移っています。上半身と大腿部とのバランスと稜線が小品ながら大きなスケールを感じさせてくれます。構図もしっかりしていて、川端画学校の基礎訓練の充実が垣間見れるようなデッサンです。

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