2012年4月11日 (水)

吉祥寺・昭和通り

20120401 4月1日に成蹊学園・桜祭に出かけ、吉祥寺駅から学園までのんびりと散策しながら行きましたが、懐かしい風景もわずかながら残されてました。
東急デパートの両サイド南北を東西に走る昭和通り・大正通りは小学校から高校までの12年間歩いたり、自転車で通過したところですから今もその当時の記憶が歩きながら蘇ります。当時はこの通りには生活密着系の個人商店が点在していた長閑な武蔵野のローカルな街でしたから、帰りなどは碁盤目の道をジグザグに歩いては、街の各所に新発見などして喜んでいたのです。
この画像は当時(ほぼ55年前か?)からあった立派な木造住宅で、この界隈ではひときわそびえたっていたと感じていた一軒です。今もこうして朽ちることなく、メインテナンスもきちんとしているのでしょうが、快適にお住まいのようです。生垣から春の芽吹きも始まり、ホンワカした姿はうれしいですね。当時は生垣に木造住宅という典型がずうっと続いていて落ち着いた景観を保っていましたが、今は数軒しか残っていません。
時間軸と記憶の蘇る景観が少しでも残っているだけで感謝したくなります・・・。

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2012年4月 4日 (水)

見上げるとモダンの迫力が!

19302Photo お茶の水から本郷に抜けるときに秋葉原方面を見ると、今も聖橋の美しくモダンな姿が周辺を圧倒していて、ついつい立ち止まって一息いれてしまいます。この日は聖橋に近づいてあおるようなアングルでスナップしてみましたがプロポーションの良さは不変です。ニコライ堂と湯島聖堂を結ぶ橋というわけですが、1927年に完成し思い切ったモダンコンセプトの意匠はまさにインターナショナルですね。

昭和初期の絵ハガキは、聖橋と周辺環境とが溶け込んだ素晴らしい景観を記録していますが、今ではこの横に広がるエレベーションの見事さも寸断されて見る影もありませんが、それでも都内では絶景スポットには違いありません。

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2012年3月 8日 (木)

退屈な船旅。

Rimg30670 凡そ、90年前の写真です。大型客船で大西洋を横断中・・・。毎日毎日が退屈三昧・・・船会社も毎日をいかに楽しく過ごしてもらうかがリピーターの確保にも繋がるため、エンターテイメントやゲームなどの企画に知恵を絞っていました(今もまったく変わりませんが)。

写真を見る限りでは服装からして秋頃でしょうか。おひさまの恵みをいっぱい浴びていて、いまのような「日焼けはいやよ」といった様子はまったく見られません。みなさん、ずいぶん素晴らしい服を着ていますね。船旅がステータスそのものだった頃ですから、みなさんもそれなりの・・・でしょうね。

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2012年3月 4日 (日)

父の書斎。

Photo 久我山の家の北側は父のアトリエが占めていて、いかにも絵描きさんのお家といった感がありました。小学生の頃から10代後半になるまで、父の居ない時にそっと忍びこんでは、本棚に整然と並べられた画集から哲学書を適当に引っ張り出しては捲っていました。中には、父が1930年代初頭に遊学していたベルリンで買い求めた書籍があって、木版画の挿絵とドイツ語の活版印刷の重厚さに感動などしていたのです。父は本の棚入れ順番にも独自の分類法があったのか、まったく関係ないジャンル同士が隣合せになっていて、そのコードをひも解くのも面白い暇つぶしでした。

北側の部屋は日当たりが悪いので、書籍も湿気やすく、父は5年に一度くらい棚卸と整理を兼ねた日干しをしていました。秋ごろの快晴日になると午前中からさっさと始め、その手際の良さに手慣れていたことを感じていました。

本のある家に育った私は、父の真似をして、最近まで棚一面に本を展開していましたが、徐々に、不必要な本も見極められ、この数年ですっきりとなりました。

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2012年2月29日 (水)

1939年 赤坂見附が桜でいっぱい

193901Rimg41282 赤坂見附の交差点は自転車で通過するときも首都高などで塞がれているため、その閉塞感は都内で有数の不愉快環境ですが、昭和30年代初めまでは、それはそれは美しい環境でありました。とりわけ戦前は、上の写真にあるようなみごとな花の坂道で、三宅坂から下ってくると、その桜の壮大で華麗な美しさは素晴らしかったそうです。二枚の画像はアングルが若干ずれていますが、その違いたるや、想像以上であることがわかります。九段から渋谷に向かう路面電車から眺める春爛漫のパノラマを復活してもらいたいものです・・・。

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2012年2月27日 (月)

1946年・・・日本橋が明るかった頃。

1946 閉塞感だけしか感じられない日本橋も、1964年以前はこのような空に向かって伸びる欄干が美しい姿を魅せてくれていました。帝国製麻本社の赤煉瓦ビルも今となっては消滅し残念でしたが、存在していた頃はさしてその美しさも気にもならず、見過ごしていたのですから人間は勝手なものです。戦争が終った翌年の撮影ですが皆さん集って紙芝居に見入っています。何の紙芝居か分かりませんがこれだけ大人が集合しているのですから、国体の変化に伴う様々なポイントでも説明しているのかも知れません。

3年8ヶ月に亘る休息シフトもなしの戦いが終ってみれば、相手はシステム工学を基盤にマニュアルを完璧に準備し、担当が入れ替わっても即戦力として機能できるなど、休暇制を前提とした戦術を採用していたことが分かり、ヘトヘトになるまで戦い抜くといった薩長陸軍主導の田舎侍集団の間抜けさが、徐々に世間に晒されたの頃の写真であります。

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2012年1月17日 (火)

1965 井の頭公園駅前

1965_21963年に高校に入学してからの三年間は殆ど自転車通学三昧で、春・秋になれば時季の気配を求め、小金井郷土館や善福寺、はたまた深大寺へと、下校時から帰宅までを自由自在にハンドリングしていました。秋の時季は日の暮れるのも早く、気温も急激に下がるものの、若さゆえ、まったく気にせず、既に徘徊走行(徘走)の楽しみをしってしまいました。

そんなわけですから、学校と自宅の間にある井の頭公園はあまり自転車で通ることも少なかったのですが、何故か、この駅周辺の雰囲気は好きでしたね・・・。駅というより公園の脇についでに寄り添っている姿が控えめで好感が持てました。改札の左に見える売店は、アイスクリームがいつも霜降り状態で銘柄も分からないほどでしたが、学校の帰りに校則違反をしてでもいただく美味しさは格別のものでした。この駅は東急・大岡山駅と同様、改札を降りると地勢が井の頭公園方面に下っていて、眼下が広々としているのも魅力でした。

今はどうなってしまったのでしょうか。意外とこの長閑さが伝承されているかも知れませんね。

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2012年1月16日 (月)

1965 井の頭通りから井の頭線吉祥寺駅ガード

1965撮影:土屋恂

この写真が撮影された1965年に高校を卒業し、中央線・高尾の大学まで通うようになり、それまで親しんだ吉祥寺も疎遠になりだしました。この井の頭通りは正式には水道道路と呼ばれ、その名のとおりこの下は水道管のオンパレードで現在に至っています。
当時、杉並区・久我山に住んでいた私は、高校に自転車通学の毎日で、井の頭線線路沿いの抜道を立教女学院経由で、水道道路に出て通っていました。この写真の背中方面にあった東京サイクリングセンターで買ってもらったドロップハンドルの自転車はスピードが出て、自宅から高校まで20分ほどで着きましたから、電車よりも自由解放感も手伝って、毎日違うルートを探したりと地味な愉しみを見つけていました。この写真の左にみえるクラブ・ヨーローはキャバレーで随分と繁華街から離れたところにあるものの、けっこう繁盛していた店です。高校時代にはこの妖しげな建物に胡散臭さを感じていて、自転車に乗りながらこの店を横目で見ていた途端、舗装のデコボコ部分に前輪が掬われ横転したものの、まだのんびりとしていた街道は車も少なく大事に至りませんでした。
今はガード先の信号まで渋滞の名所であります。

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2011年12月17日 (土)

明治中期・柳橋から両国橋を望む。

Photo_2 Rimg34796 ここは柳橋、明治30年の花火大会で壊れ鉄の橋となる以前、明治前期の写真でしょうか。美しい町並みと遠景であります。花柳界としても一流だった柳橋は、ここから舟を繰り出して吉原まで遊びに行く御仁も多く、その流儀はいかにご一新が進もうと、徳川瓦解という認識しかもたない旦那衆にとっては懐旧の世界を維持できる地域文化の華でもあったのです。もうすでに、間抜けな洋館が両国橋の傍に建つ等、いつの時代も目立ちたがり屋は多いのですが、ご一新に関係したお方か、新政府商売に関わったお方のお住まいのようです。両国橋も現在の位置より南にあることから、明治8年の改修の完成した頃の撮影かも知れません。

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2011年12月 8日 (木)

1956年のスチール写真。

Img_0013 1956年、東宝映画『嵐』のスチール写真を整理しているうちに、当時のロケーション現場がどのあたりなのか興味が湧いてきてしまい、一緒に梱包された脚本をめくっているとそこいらじゅうに書き込みがあり、ロケ現場が東京港区麻布・六本木・飯倉界隈を中心にしていることが分かります。
1956年は昭和31年、テレビも徐々に広まり始め、家々からアンテナも生え出した頃ですが、このスチール写真からは明治から続く麻布周辺のの薫りが漂ってきます。左手の塀の雰囲気と対照的な右の民家からして、華族・実業家・軍人のお屋敷と職人の家らしきものが泥んこ道を隔てて、はっきりとクラスの違いを見せています。麻布界隈は現在もこの塀のようなつくりが割と残されていて、たとえマンションになっていても環境の歴史伝承は繋がっています。

さて、この写真の設定時代は大正8年頃で、祖父が芝西久保桜川町から麻布飯倉片町に転居し始めた頃です。

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